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本丸までの石垣は高さは45メートルもあり、上の写真を見ても分かるように、津山城の豪壮堅固な石垣は全国的にも稀なほぼ完璧な形で往時の姿を現在に残す。積み方、高さ(最高13.6メートル、平均8〜11メートル)ともに見事。縄張りの複雑さも相まって、何時間城内を散策しても飽きることはない。一番上の写真は二番目左上の写真でよく分かる天主台から見た備中櫓。備中櫓は城内最大規模の櫓で、内部は畳敷きの御殿様式という特徴を持つ。左下の写真が櫓内部。右下の写真は本丸「五番門南石垣」の上にある「太鼓塀」。高さ2.6メートル、長さ33メートル。石を詰めるため内部が空洞になっており、その形状から太鼓塀の名が付いた。内部に石を詰め銃弾の貫通を防いだ実戦型の塀で迫る敵を鉄砲で狙撃するための穴「挟間」が15カ所ある。現存する太鼓塀は金沢城の門だけという。 |
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<備中櫓130年ぶりの雪化粧>
備中櫓の復元は、平成14年(2002)1月に着工し、平成16年末には覆い屋の撤去など外観工事が完了。明治の廃城令による取り壊し以来、130年ぶりにその威容を現した。そして津山は平成17年(2005)を雪景色で迎え、備中櫓も130年ぶりに優美な雪化粧を施した。下の写真は平成17年正月の130年ぶりそして復元備中櫓としては初めての雪化粧。同17年3月に落成、総事業費は8億円。 |
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<鶴山館>
鶴山館(写真下)は明治38年(1905年)、藩校・修道館の講堂を三の丸に移築したもので、移築にあわせ「鶴山館」と改称した。修道館は、城下町の中心・京町に面する京橋門の内側(現在の山下、大手町)にあった文武稽古場(学問所一棟、稽古場二棟、射場一棟、御覧所一棟)の東側に講堂(学問所)をさらに設け「修道館」と総称した。この講堂はすぐに廃藩置県を迎え藩校としての役目は短かったが、現在の城内において、幕末・明治初期の津山を偲ばせる貴重な建物といえる。この修道館は、津山松平藩五代藩主・康哉が明和2年(1765年)に下御殿跡を利用して学問所を設けたことに始まる。 |
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<移築現存する津山城の門> 中山神社神門
中山神社神門は津山城二の丸の四脚門を廃城後の明治7年(1874)に移築したもので、切妻造、檜皮葺の薬医門様式。凝った装飾はなく太いケヤキを用いた柱や梁、高い軒など城門の特徴を備えるが、この四脚門最大の特徴は、扉のない門だったことで、現在残っている複数の津山城絵図でも、四脚門には扉が描かれておらず、現在の門にも扉の付いていたこん跡はない。 |
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大隅神社神門
大隅神社神門は津山城内にあった切妻造、本瓦葺、薬医門様式の門を修道館(現在の鶴山館)の表門として使用していたもので明治維新後、大隅神社に移築された。乗馬で通行できる高さと太い用材からも城門の面影を色濃く残している。 |
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本丸から移された葵の瓦
「津山城址入り口」にある津山観光センターから南へ京橋門跡(津山城大手口、徒歩5分)を示す石柱からもう少し南へ進んだところに鬼瓦などに葵の紋が入った金毘羅宮がある。この瓦は明治のはじめ(記録では明治5年・1872年、廃城は同7年)に津山城本丸から移されたもので、現在の津山に残る越前松平家(徳川家康次男、結城秀康の嫡流)の面影の1つといえる(現在は鬼瓦などの一部は複製瓦となっている)。 |
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<津山城とだんじり>
松平(結城)秀康の曾孫で津山松平藩・初代藩主の宣富をはじめ歴代藩主やその家族も度々「赤座屋敷」と呼ばれる津山城の一角にある建物から祭りを楽しんでおり、その伝統から現在も例年、大隅神社関係、徳守神社のだんじりは津山城大手口の冠木門南下の「津山城址入り口」にある津山観光センター(山下97-1)に統一行動で集結します。本祭りの集結時間は、大隅神社、徳守神社のだんじりとも午後1時30分〜2時30分あたりです。 |
<剣大>
昭和7年、津山市の市章となった「剣大」は、津山松平家の合印です。合印は家紋とは別に戦場で敵味方を区別するために用いられた印です。津山松平家は越前家宗家(徳川家康の第二子・松平(結城)秀康の嫡流)ですから、元をたどれば越前家の合印ということになります。家康の正室・築山殿の嫉妬から逃れるため本多作左衛門重次に預けられたお万の方が産んだ子が秀康で、重次に育てられます。合印はこの本多重次の忠義を忘れないようにと「本」の字を2つに分け、「大」の字を合印とし「十」の字を槍の鞘の形にしたと伝わります。 |
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