越前家・合印
「剣大」 |
津山だんじり囃子の由来
津山だんじりの囃子は、津山松平家(徳川家康次男・結城秀康が藩祖の徳川御家門筆頭・越前家)の陣太鼓が始まりと伝わる。津山松平家は初代藩主・宣富が津山初入国の際、祭り見物を楽しんだことから歴代藩主は祭りの「城内引き入れ」を慣例とするなど祭りと深く関わってきた歴史がある。
陣太鼓は、戦国時代に興ったとされ、大名などが軍陣で軍勢の進退を指示し、士気を鼓舞するために打った太鼓で、鉦(かね)とともに用いられた。鉦は陣鐘(じんしょう)と呼ばれ小型の梵鐘(半鐘)が使われた。
現在も津山だんじりの囃子は太鼓と鉦のみで、元々は陣太鼓であったことが色濃く残っている。津山松平家の陣太鼓が祭りに用いられるようになったのは、津山だんじりが最も成熟した幕末の時代背景と深い関係がある。
嘉永6年(1853)のペリー来航時、津山藩は相模警護が親戚の川越藩だったこともあり、翌日の6月4日には詳細を知り箕作秋坪を浦賀に派遣している。藩としては江戸高田屋敷に家中一統、次男・三男に至るまで集めて鉄砲の稽古や大砲の打ち方などの鍛錬を行っている。翌7年、江戸湾へのペリー再来時には、高輪(港区)の警護を大砲7門と鉄砲95挺、195人の藩士で行っている。その後も禁門の変、長州征伐と不穏な時代となった。
この時、領民も含めた有事の備えとして津山松平家(越前家)の陣太鼓を城下の祭りに用いることで、城下(当時の津山城下の人口は町人だけで8000人前後)の士気を高めると同時に武家以外にも周知を図ったと考えられる。
現在の津山だんじりの囃子は2種類の打ち方があるが、掛り太鼓、押し太鼓など、どの合図に属するかは残念ながら不明だ。
祭りを通して先人たちが遺した津山松平家(越前家)の陣太鼓という“無形の文化”が今も津山に鳴り響いている。 |