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井上幽雪斎、幸治親子が手懸けた牛窓・沖だんじり |
竜頭船形で明治8年制作 |
■林野(林野神社、上本町だんじり)
瀬戸内市から吉井川沿いに北へ向かうと高瀬舟による物資の輸送で栄えた美作市林野があり、11月の初めに行われる林野神社秋祭りに出る上本町のだんじり(美作市重文)も幽雪斎の手によるものだ。こちらは牛窓の3年前、明治5年に造られている。また、下茅町(明治14年)のだんじりは津山型で担ぎだんじりを台車に乗せたものだ。彫師は井上直助と伝わり、幽雪斎の幼名・直輔からも本人または一門が手懸けた可能性が高い。
林野商人は津山藩領時代、津山城下の商人と同程度の権限が与えられ高瀬舟とともに津山との係わりも深くだんじりも津山の影響を受けやすかったと考えられる。
船着場周辺に商人の蔵が立ち並び、倉敷と呼ばれた林野は、明治の町村制施行で英田郡倉敷村(美作倉敷)となり、窪屋郡倉敷村(備中倉敷)と北と南に2つの倉敷が岡山県内にあった。 |
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非常に良く似た雰囲気を持つ林野・上本町(左)と津山の河原町(桜若)の彫り |
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■児島(鴻八幡宮、奥だんじり)
南の倉敷、現在の倉敷市と合併により一緒になった児島で10月の第2日曜日に行われる鴻八幡宮の秋祭りにも幽雪斎が手懸けたとされるだんじりがある。「琴浦の祭りとだんじり/鴻八幡宮祭りばやし保存会編集委員会」によると明治初年に制作された奥だんじりがそうで、幽雪斎の作として津山の新魚町、河原町、鍛冶町が有名とある。鴻八幡宮秋祭りは、平成19年の宵祭りを拝見する機会を得た。だんじりの宮入の際に地元ケーブルテレビの番組で解説を務めるという奥の町内会長、尾崎氏(当時)に懇切丁寧なご説明をいただき、祭りにかける同地区の心意気を知ることができた。
平成9年に岡山県の無形重要文化財に指定されたしゃぎり(祭り囃子)を担当する小学生の練習は夏休みから始まるといい、地区には篠笛を吹ける若者が多く格好良い。
幽雪斎が手懸けたとされる奥だんじりは、児島郡胸上村(現玉野市胸上)から大工を呼び寄せ制作させたとの伝承が町内にあり、幽雪斎の生まれが胸上村であることからその大工が幽雪斎ではないかと推測しているという。しかし、奥だんじりが造られた明治初年よりかなり以前に幽雪斎は本家である邑久郡玉津村尻海の井上を継いでおり、胸上から出向くことはない。しかし逆に井上家の分家が胸上にあったのは確かで、既に地位を確立していた幽雪斎の下、修行に励み独立した一門の手によって造られたのかもしれない。現在も手を入れられ続けている奥だんじりは、町内の方々の思いが伝わる歴史と深みのあるだんじりだった。
ちなみに鴻八幡宮秋祭りは宵々祭り・宵祭り・本祭りと3日間行われ宵・本祭りは朝5時半の餅つきや飾り付けに始まり夜の7時まで一連の行事が行われる。 |
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児島・奥だんじり。鴻八幡宮秋祭りの祭囃子は平成9年に岡山県の無形重要文化財に指定されている |
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最後に、津山で井上親子が単独で手懸けた河原町(桜若)が造られた慶応3年(1867)は、津山から初めての内閣総理大臣、平沼騏一郎(第35代、昭和14年就任)が津山城下南新座で津山藩士平沼晋の次男として生まれた年で、坂本龍馬が暗殺された年でもある。このような時代に活躍した井上親子が、国も違った当時の岡山県内を北から南へ遺した仕事、精根込めて彫り上げた命溢れる彫り物が施されただんじりは、今も各々の地域で人々を魅了し色あせることなく輝き続けている。 |
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