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天保13年(1842)、だんじり(神輿太鼓)の出動台数をを林田(大隅神社の氏子)弐、西町(徳守神社の氏子)六にするようにとの藩命が出されるが、厳しいものでなく各町とも従ったり従わなかったりの状態だった。
その後、安政3年(1856)に町奉行三浦十郎左衛門名での通達が出され、この時、具体的な出動順序が示される。
これは、祭りの規模を小さくしようとするものではなく、祭りへの費用が莫大となり窮する町内がでてきたため、祭りを永劫に続けるため輪番制として毎年ではなく、隔年の出動とすることで各町の負担を抑えるとの趣旨を藩が説明している。また、この時の隔年出動は150年を経た現在も残り、城下各町内の出動継続の大きな要因となっていることから当時の藩命は正しかったと言えるのではないだろうか。
現在も当時の出動順をほぼ再現でき、特に西町(徳守神社)の第四組は、すべての町内が今もだんじりを有している。
江戸時代、津山のだんじりは、担いで城下を練っていた。>>詳しく |
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